「チベット難民ドキュメンタリープロジェクト」の第一弾としてこのドキュメンタリー(『チベット難民〜世代を超えた闘い』)の制作を企画したのは、アメリカの大学院に留学していた1997年の秋でした。
「チベット問題」を確実に認識・把握していくために、その「問題」を廻る諸状況に"一石"を投じることを目的としています。すなわち、中国政府の見解に偏る日本のマスメディア(特に、TV局)、「チベット問題」を反共運動に利用する反動勢力、そして、チベットやチベット人を過度に理想化する、いわゆる”シャングリラ症候群”の人々とが織りなす状況です。
更に、欧米のメディアがこれまでに制作した「チベット難民」関連のドキュメンタリーとは異なる視点で「難民」を描く意図もありました。
欧米のメディアのチベット難民の描き方には二つの大きな傾向があります。
1. ダライ・ラマ法王に従う純朴無垢な人々。
2. 中国(人)に虐げられて逃げてくる哀れな人々。
この中では、一般の難民はどのような人々で、どのような問題に直面し、チベットをどのように思い、「チベット問題」の解決のためにどのような行動を起しているのかが殆ど具体的に紹介されていません。 つまり、難民たちの「顔」が見えてこないのです。結果、「チベット問題」や「チベット難民(人)」に対する一般人の固定観念(ステレオタイプ)(或いは、”シャングリラ症候群”)が助長されています。
その傾向を少しでも”矯正”し、チベット難民の闘いの真の意味と複雑極まりない「チベット問題」とを単純化せずに熟考して頂くために、「欧米のメディア」とは異なるアプローチの必要性を感じていたのです。
当初、米国でアメリカの財団の寄付金によりこのプロジェクトを行う予定でした。しかし、寄付金の審査に非常に長い時間がかかることと、アメリカ国籍を有しない者は殆ど審査の対象とされないという状況を考慮し、最終的に日本で企画の実現を図ることにしました。「チベット問題」にとっての"節目"の年(重要年)である*1999年にが差し迫っていたことも理由でした。その前年に取材の準備を終えねばならなかったのです。(*1999年:チベット民族蜂起40周年); 『ダライ・ラマ亡命 40周年』;『中華人民共和国建国50周年』;『ダライ・ラマ14世ノーベル平和賞受賞10周年』;『天安門事件10周年』)
98年に帰国後、報道系のプロダクションを回り企画への協力を要請しました。しかし、ある程度予想していた通り、「チベット問題」がネックとなり断られました。企画書をきちんと読む以前に「チベット問題」とうい文字を目にしただけで拒絶反応を起す。「これは、反中国のドキュメンタリーではなくヒューマンドキュメンタリ—なのです」と詳細な説明をしている傍から、「チベットは駄目なんだよねー」と担当者は”お題目”の様にぶつぶつ言う始末。これで、世間では"ニュースプロダクション"として名が通っているのだから驚きでした。本多勝一氏が言ったように、「ジャーナリズムは死んだ」のかなと非常に残念な思いがしました。
予想していたとはいえ、プロダクションの協力が得られないことは大きな痛手でした。しかしながら、1999年まで後半年あまりになっていたので、気合いを入れ直し、「自己資金」と「寄付金」により独力で行う決断をしました。非常に微微たる資金でしたが、既に「賽は投げられ」ていたのです。様々な問題が発生し悩まされ続けました。しかし、善意ある一般の人々の協力の御蔭で何とか、ドキュメンタリープロジェクト第一弾・『チベット難民−世代を超えた闘い』が2000年夏に完成。
ドキュメンタリーを通じて、一人でも多くの方々がチベット難民の"闘い"の意味を考えて頂ければ幸いです。
なお、『チベット難民ドキュメンタリープロジェクト』は三部作構成になっております。2002年より第二作目の取材に入ります。今回も前回と同様、マスコミ(プロダクション)の協力は得られそうに有りません。末筆ながら、善意ある皆様方の御支援・御協力の程を重ねて御願い申し上げます。 私は、今後も最善を尽くしていく所存です。
田中 邦彦
December 2001
その後、ドキュメンタリーは日本各地で上映され、多くの反響を得ました。又、「英語版」はヨーロッパの国際映画祭にも招待され、その後、ベルギー議会で上映されたりもしています。詳しくは「ニュース」で。
田中 邦彦
December 2005